おみまい

 私の祖母が、ステージ4の末期がんで、なにもしなければ5ヶ月、化学療法を使っても8ヶ月の命であると耳にしたのは今年の3月のことだった。

 

 もう10月も終わる。葉が少し色づき始め、気温が落ち着いた今日この日に、私は初めて祖母の見舞いに行った。入退院を繰り返していた祖母に全く会っていなかったわけではないけれど、ずっと自宅で話をして一緒にテレビを見ていただけだった。引っ越してから、病院での祖母の顔を見るのは初めてだった。なんとなく気が引けていた。今思えば、病気の祖母を目の当たりにするのが怖かったのだと思う。引っ越しや学校などを理由にして祖母を遠ざけてきたことを、30分にも満たない面会で後悔させられた。

 

 本当に苦しそうだった。健康だった頃には肥満ぎみだったにもかかわらず、私と同じくらいの体重にまで落ち、頬はこけ、体は骨と皮だけになっていた。8ヶ月前に化学療法を受け始めた当初は、家族共々いかに困難な道のりであるかを知らなかった。受けさせなければよかったと祖父は後悔していた。延命したところで、週に4日かもしくはそれ以上、辛くてずっと眠るしかできない生き地獄だった。食べることがあんなにも大好きだったのに、化学療法の影響で味覚が分からなくなった。何を食べたいのか、何をしたいのか分からないまま過ごした数ヶ月間だったと、そう聞いた。

 

 化学療法を受け始めた当初は、祖父を筆頭に家族で延命しようと躍起になっていた。きっと心の整理がつかないままだったのだろう。途中で、祖母の「辛い、やめたい」という言葉とその結末を受け止める勇気もなく、無理をさせてしまったことを祖父は悔やんでいた。

 祖母も、家族と過ごしたいと決心して頑張ってきた、その結果が、味覚が狂い、衰弱し、10キロ痩せて栄養失調になるなんて思いもしなかったのだ。無知だった。みんな初めてのことだらけだったのだから。

 

 病院のベッドで、胸から管を出して横たわる祖母の体はとても小さかった。たまらなくなって、ぎゅっと手を握った。「あったかい」という祖母の一言に、今日は珍しく私の体温が高いのかと思った。面会に一緒に来ていた叔母の手を握った。私より温かかった。祖母の手足が冷えていたことに、その時気づいた。もっとたまらなくなって、泣き出しそうだった。

 

 ずっと寝たきりで、持って行ったカットフルーツも小さなおかずも、少し口に含んだだけで食べることをやめてしまったのに、ディズニーに行ったお土産の小さなクランチチョコレートだけは平らげてくれた。この前食べきれなかったチョコレートのお菓子があるのだと、そのつい先刻に教えてくれたのに。美味しいと思ってくれるうちにたくさんあげるべきだった。辛くなって、病院を出た後、家族と別れて1時間も余裕をもってバイトに向かった。1人になりたかった。

 

 家族は病気のことを私に教えてくれた当初、誰も泣いていなかった。もしかしたら、私の見えないところで泣いていたのかもしれない。そうしてみんな受け入れてしまったのだろうか。いまだに葛藤しているのかもしれない。みんな見えるところで泣いてくれればどれだけ良かっただろう。どこを捌け口にすればいいのか分からなかった。私だけじゃなくて、もしかすると祖父も祖母も母も叔母も、そうだったのかもしれない。今もそうなのかもしれない。不器用に気を遣う家族と自分自身を恨んだ。あの時、私が泣いてしまえばよかった。

 

 いろんなものをもらったのに、どうすれば恩返しできるのか分からなかった。旅行?ご飯?マッサージ?肩たたき?お花?エゴだとわかっていても、考えることをやめられなかった。幸せそうな笑顔をもう一度見たいだけなのに、私がやったことは味のしないチョコレートを食べさせただけ。一番つらい本人がどうして一番優しいのだろう。

 

 毎日とはいかないと思う。それでも、祖母の命がある限り、顔を見に行こうと思った。ずっと忙しさを言い訳に遠ざけていたし、辛い顔を見るのが嫌だったけれど、会えるだけで幸せなのだ。命があることがどれだけ尊いことなのか。辛い治療を乗り越えて、私たちと生きる時間を長くすることを選んでくれた祖母に会いに行くことが、この治療に報いることなのだろう。

 バイト終わりの遅い電車で、ぼろぼろ泣いた。これからもたくさん泣くかもしれない。きっとどこでも、辛い出来事は時間がいちばんの薬なのだ。それまでは苦しいかもしれないけれど、今ある幸せを噛み締めようと思う。

 

今日は寝る。おやすみ。